○大理(ダーリ)
ダーリへは途中、下関(シャグアン)で乗り換え約6時間。宿は楡安園にした。
この町は少数民族の人々が集まるマーケットなどがおもしろい。安い宿が多く、日本食レストランが数件あり、日本人の長期滞在者が多い。それに大麻が自生しているため、草刈りをすれば、ただで気持ち良くなれるのでそれ目当ての旅行者もいる。
同じ日にここに来た草葉くんは、ダーリに着くや、「葉っぱはどうですかね」と葉っぱのことばかり気にしている。彼は喫煙中、心に届く音楽を発見したり、浮揚体験もしていて葉っぱの楽しみを充分に知っているようだ。「葉っぱを吸っていると、こうすればボクは豊かな人生が送れるんだ」と分かるという。その度に日記に書き取るのだが、シラフの時読み返すと、「くだらない、どうしてそんなこと思ったのだろうか」と、がくぜんとするらしい。
翌日草葉くんに会った。早速、天然の葉っぱを見つけ、ガーデニングと収穫を楽しんだという。
「草がゴミ捨て場の近くなんですよ、まったく。でも無農薬ですよ」
「トイレに落ちろ、ダイオキシンを吸え」と思ったが言わなかった。ある日草葉くんがハイの状態でガーデニング仲間と話していた。
「月に行きたいよな」
「バックパックなんか背おっちゃってさ」
「スペースシャトルに空席なんかあってさ」
「ハードな旅行だったよなとかいっちゃってさあ」
こんな話を横で聞きながらボクは人間の尽きない可能性を感じていた。
この町には三塔寺があり、40mの塔2つと70mの塔がたっているが、こころなしか傾いて見える。この辺りは地震が多くそのせいかもしれない。
▼玉龍雪山(5596m)
○麗江(リージャン)
くつろぐ所が少なく、観光化されたダーリから、バスで約4時間かかって、ナシ族の町リージャンに来た。この町の四方街と呼ばれるオールドタウンは、観光客が多すぎるのが欠点だが、車も入れず、静かで良いところ。ほとんどの家が1~2階建で、黒い屋根と壁土、レンガ、木造だ。ふん尿を樽いっぱいに入れ、天秤棒で、前後ろと2個持って、おばさんが狭い小道を運んでいる。時々、黄金汁が飛び散る。なつかしい。子供の頃、見た光景だ。
町のなかを沢山の水路が流れていて、人々は洗濯をしたり、野菜や食材を洗ったり生活の大切な一部になっている。リージャン自体が標高2500m近くあるのだが、周りをそれよりも高い山々に囲まれていて、貯えられた水は豊富にありそうだ。観光客が多いので、汚れも心配されていて、ボクら旅行者は自覚が必要になる。特に来年は“花博覧会”もあり日本人が溢れる程来ると言うから心配だ。
この辺は地震が多く、数年前には500人ほどが亡くなったという。新しい建物が多い新市街は倒壊が激しかったらしいが、旧市街は被害は少なかったと聞いた、皮肉なものだ。
リージャンでは、三合飯店のドミトリーに入ったが、落ち着ける宿だった。トイレは中国式だけれどきれいにしていて、ホットシャワーはたっぷり。夜は気温が下がるため暖房までいれてくれる。シーズンオフということもあって、16人部屋にボクら二人だけという日もあった。四角く囲まれた建物の中庭でお茶など飲んでいるとあっというまに時間が過ぎてゆく。
働いている人たちも感じがいい。久しぶりに過ごしやすい宿に出会った。ただ夜中に枕元をネズミが走るので食べ物には注意しなければならなかったが。
毎日信じられないぐらいの快晴で町から間近に迫る標高5596mの雪を被った玉龍雪山がスバラシイ。近くの高原にはヤクがいて、直接見たのは初めて。
▼麗江の屋根瓦
○バックパッカー
ドミトリーにはいろんな旅行者が出入りしていた。“ハダシくん”は寒いのに靴下も履かず靴もなく、いつもぞうり姿。荷物も少なく、中は本ばかり。歳は20才位だろうか。「旅行をしながら中国語を勉強している」という、確かに昼間イスに腰掛け辞書を開いていることがあったが、それを見たのは一回きりだ。彼から、ラオス語会話の本を貰った。その本の著者、おこのぎなにがし、は聞いたことのある名だった。その著者はチェンマイの大学で日本語を教えているらしく、タイ語会話の本も書いていて、それをボクは見たことがあった。記憶に残っていたのは、この本の中に「服を脱いで下さい」「生理中ですか」など“実用的”な内容も書かれていて、「会話の本に、こういうことを書く教員もいるんだ」と思ったことがあったから。
現場監督のヤマさんは「建て売り住宅を買ってはいけない」と忠告してくれた、現場で見ていての忠告だから間違いない。彼は旅行研究会に入っていて、そこでは旅行発表会なるものがあり、そのたびに、名古屋から東京まで行くそうだ。今どきそんなことをやっている古風な人だ。
アイさんはゲームソフト会社を止め、チベットなどをテーマにした旅行ゲームソフトを作るために旅行しているという。この寒い時期にチベットに向かうというが、お寒いゲームになることだろう。
25才位の“カツラさん”には驚いた。
「私、旅行にはディナー用ドレスとハイヒール、それにカツラを持っていくのが当たり前だと思っていたんです」
断わっておくが彼女は禿ではない。立派な髪の持ち主だ。「私、バックパック背負って旅行するというスタイルの旅行があるとは知らなかったんです」
「海外旅行というと3~4万円のHOTELに泊まって、そこのバーで楽しみ、カジノに行く」のが今までの旅行だったそうだ。ボクはそんな旅行があるとは知らなかったが。
「私、カジノが好きなんです。カジノがあれば、足が向いてしまう」そうだ。過去の旅行で23日間で90万円以上使ったこともあるとか。
そんな旅行者とバジェット旅行者は、水洗トイレと中国トイレほどの差があるではないか。彼女はインドの2等寝台で麻酔強盗に会い、2日間昏睡状態だったそうだ、気がついたら病院の中。勿論、荷物はなかったという。こんな経験をしても彼女は“バックパック”の旅行を続けている。
「今からベトナムに行きアオザイを作るんです。それから米国のラスベガスに飛び、そのアオザイを着て、ラスベガスのカジノに登場して、その後に、中米に行きまーす」
恐るべしバックパッカー。この旅行者はいままでの旅行者とはやけに違う。違い過ぎる。新種だ。ボクらが20代で、悲壮感を漂わせて議論をしながら旅行をしたのとはぜんぜん違う。それに世界というものが近すぎる。簡単にアチコチに行く。「ムー、これはてごわいかも」
なにがてごわいかは知らないがそう思った。バックパッカーも外見では分かりにくい時代になったようだ。
火鍋
昆明に戻り、ラオスのビザを取った。1カ月で45ドル。来年(1999年)は観光年で安くなるそうだ。発行まで土日を挟んで5日間待った。14ドル余分に出すと即日発行なのだが。やはりボクはケチなのか。でもそうやって発行まで何日も待つ旅行者は多い。
茶花賓館のドミトリーに2人の旅行者が来た「どこから?」聞くと「カリフォルニア」だと答える。つまり米国という訳だが、州の名前で答える。こういう経験ははじめてではない。一般に国の名前を言うものだが、彼等はどこか違う。同室のオーストラリア人は「特別だから」と言ったが、どうも彼等の態度が鼻につく。
そのオーストラリア人のアンディはスイスの金融機関で働いていて「自分の時間を持てないこんな生活でいいのか」と、仕事を止めヨーロッパから陸路で中央アジアを抜け、中国に入ってきたそうだ。23才で、自分の時間と会社の時間の使い方を知っている。彼もそうだが一般に欧米人は話のテーマが広いように感じる。アンディも
「政党はどこを支持しているのか」「クジラ問題をどう考えるのか」
と聞いてくる。
以前、オランダの女性に日本の路上生活者対策をきかれたが、日本人どうしだと、ほとんど話題にならない。日本の会社だと、政治や社会問題などの話題は避け、スポーツの話題が無難なところだろうが、欧米人には通用しないのではないか。
イスラエル占領下の東エルサレムの小さな安宿に泊まっていた時、宿のオーナーがパレスチナ問題で夜9時頃から話し合いをしようと呼び掛けた。英語の討論などボクには理解できないが、それに出てみた。すると20人程の欧米人旅行者が来ていたのにビックリ。宿には日本人も何人かいたが、日本人はボクら二人のみ。旅行中にこんな討論会に参加すること自体、日本の感覚ではありえない。それどころか、こんなことを呼び掛けられただけで迷惑なのではないか。地理や歴史の違いはあるが、実は湾岸戦争の後で、日本は多額の資金を米国等に拠出しており、パレスチナ人はそのことをよく知っていて「どうして私達には援助しない」と聞かれる。だから日本も当事者といえる。
会話という習慣も異なるようだ。それについて、イギリスの日本語新聞にこんなことが載っていた。
イギリス人男性が日本の女性と結婚したけれど“会話”ができないと言う。ここでいう会話とはじっくり話し合うということだと思う。そして、ジャンルは広い。結局彼は将来の設計とかについては同じ国の女性に話すことにしたという。男女間で幅広く会話する習慣は日本にはあまりないのかもしれない。
アンディと、同室のサチコさんと、たびたび食事にでかけた。ある日、サチコさんの呼び掛けで、ボク達と日本人留学生の計7人で『火鍋』と呼ばれる鍋料理を食べに行った。
100点を越える素材(デザートを入れるともっと多くなる)が用意され、それらをバイキング式に小皿に取り、鍋に入れるのだ。飢えてるバジェット旅行者は勢い勇んで小皿をドンドン運び、食べに食べた。お腹がいっぱいになったころ、ここを案内した留学生がつぶやいた 「お皿残したら、お金とられますよ」彼以外の全員が青ざめた。何で早くいわんのやとブツブツ言ったが、いくら唱えてもお皿は減るわけではなし、数皿こそっと返したが、それから火鍋と胃袋のほんとの死闘がはじまった。それはそれはすさまじいものでした。ゲップ。
○寝台バス
お腹を満杯にしたところで、昆明から西双版納(シーサンパンナ)のジーホンに向かった。寝台バスで約23時間。
寝台バスとは、狭い2段ベッドがバスの両側に据え付けられている、摩訶不思議な乗り物。ひとつのベッドに2人寝るので、一人旅の女性は気を抜けないし、盗難の話も聞く。そなえつけの毛布はこんりんざい洗われたことがないようだし、トイレはない。でも長い移動だと横になれるだけで助かる。
このバスは故障が多いところに問題がある。たとえばボクたちとほぼ同じ時刻に出発したサチコさんは31時間かかったという。出発して間もなくバスが故障し、修理の甲斐もなくとうとう動かず、別のバスに乗り換えたがそのバスも2回パンクしたそうだ。
日頃の行いとも関係あるかもしれないが、運もある。バスにはヨーロッパ系、韓国系、中国系があり、中国系以外のバスに乗ったほうがいいように思えた。でもどれに乗っても目的地には着けるはずだが。
このバスの中で『ろばや』でたびたびかけていた『蘇州夜曲』(?)が何回も流れていて胸にジーンときた。「今頃、おせちの予約をもらうころだな」前日に出発したアンディは無事着いただろうか。
○景洪(ジーホン)
ジーホンは町の中心をメコン川が流れている。川幅は300m近くはありそうだ。流れは速い。この川がインドシナ半島に恵みをもたらし、旅行者にとっても何度も出会う親しみ湧く川だ。
以前はこの川を下ってラオス、タイへの定期船があったというが、聞くところではたびたび密出国に使われ現在は無い。
悲しい話も聞いた。天安門事件の際、ジーホン出身の北京大学生2人がラオスに渡る前に、二度と会えないかもしれない家族にどうしても会いたくて、危険を冒して家に寄ったところ2人とも捕まり、3日後に死体で発見されたという。公にされることのないこういった事件は学生間にはすばやく伝わったそうだ。たぶん真相が分かることはないだろうが、一部の人は忘れないだろう。
一般に個人や少人数の旅行だと食事が偏りがちになる。でも、ジーホンではそんな心配はいらない。30種類ほどの料理が店先に並び、その豊富な料理を自由に選べるから。野菜や豆腐類だと一皿一元で、肉が入っていると二元となる。こういうお店が多く、たとえば野菜類を10皿頼んでも10元という安さだ。普段2~3品で我慢している人でもここならいろんなものを頼むことができる、このジーホン式はなかなかいい。
同じ宿に泊まっているキモノさんは靴下からふんどし、ズボン、上着まで自分で作ってしまう人で、その町で気に入った布を見つけてはベットの上で縫う。熊本の球磨郡出身の彼は「旅行に行く」と親にいったら“感動”じゃなく、“勘当”されて出てきたそうだ。ボクは感動した。
泊まっている宿にそれはそれはかわいい女性が毎日のように遊びに来ていた。年令は20前だろうか。タイからの留学生といっていたが、それはどうもウソらしい。不思議な人で何をしに宿に来るのか分からない。一寸だけ売春目的かなと思ったが、英語がとても上手く、仕事はありそうに思う。
この辺りの買売春は美容院の奥で行われる。それは昼間はしっかり美容院で、夜になると、ネオンが光だし、雰囲気が変わる。中国人は50元位が相場と聞いたが、外国人にはもっと高いに違いなく(ちなみに給料は役人は月約千元、“工人”と言われる仕事の人が月300元だそうだ)もし彼女が売春婦だとしたら、外国人相手が目的だろう。でもとてもそのようには見えない。そういう警戒をしてしまうボク自身が恥ずかしい程だ。ただウソをつくし「日本人と結婚したい」が口癖なのが気になる。ある時、彼女が日本人の大学生と抱き合っていたそうだが、それも恋愛かも知れないし、でもスーピンの結婚詐欺の話も気にはなる。とうとう彼女が何ものか分からなかったが、あの大学生はどうなったろうか。
○国境の町、モーハン
中国VISAの期限を2日後に控えラオス国境に向け出発した。
昆明からモンラー経由で、国境の町モーハンまで約7時間、国境に着いたのが午後4時頃だった。到着する直前にバスの中からサチコさんが歩いているのが見えた。
彼女の歩き方は特徴がある。両手を前後ではなく、横に振るのだ。中国が好きな彼女はあの歩き方で人民を押し退けて歩く。朝の早いサチコさんは、移動の時、行動を起こすのがボクらより常に一歩早い。示し合わせている訳ではないが、このルートは同じ人とよく出会う。
モーハンの宿の後ろは既にラオスとの緩衝地帯。正にボーダーライン上に一泊というわけだ。
国境の町といっても静かで、メインロードに沿って家が立ち並んでいるだけの小さい村。見るものはないが、国境の町というだけでワクワクした気持ちと、少しばかりの緊張感を与えてくれる。中国人兵士がボーダーを示す通行止めのバーを挟んでバトミントンをしていたのが印象的だった。ラオス側からやってきたフランス人に両替を頼み、人民元はラオスキップに変身、明日はラオスだ。
朝方、宿にはトイレがないので外の公衆トイレに懐中電灯を持って用を足しに行った。後で知ったのだが、その時サチコさんは野グソをしていて、そのすぐ脇をボクが通り過ぎたという「スリルあったわ」なんて言っておった。外の方がきれいなのは分かるが、「クソはトイレでしろ」中国は終わった。
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